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2017年 06月 21日
ブログはfacebookやtwitterに比べると記録として自分の書いたものを残そうと思うと都合がいいいので、これはあくまでも福島第一原子力発電所の過酷事故によって翻弄された一家族の記録としての記事として僕も書き、またこれを読む方にもそう読んでいただけることを前提にしてここに書き残す事が出来れば、何かのお役にたたないまでも事故の風化、原発避難という事実の風化を防ぐためのほんの少しのとっかかりにさえなればと、避難移住丸3年を過ぎた今また思い新たにしなければいけないなと、思いは強く、実際はなかなかはかどらず、しかし今こうやって書きだしたことについては、一生懸命自分を評価しないといけなとも思ったりします。
2017年6月21日。近況です。今一番頭悩ませていることは、「帰郷」です。8月に休みを取って両親を兵庫か岡山のコテージに連れて行ってBBQなどして過ごすのはどうかと、神奈川の相模原にいる弟から1か月弱前にメールが来ています。 76と75の両親はここでも何度かお話したかもしれませんが、2014年に岡山に来て以来6~7度、もしかしたらもう少し、岡山に孫に会いに来ています。こちらからなかなかいけないという事があり、来てくれるのは有難いのですが高齢です。何度も何度も来い来いとは言えず、さすがにもう毎回毎回来ればいいよとは簡単に言えなくなっています。 “そっちが都合つけてくれるなら、そのほうが話は早いよ”と、弟はこちらの返信に応えてきているのですが、そこからなかなか僕の方の返事が進みません。どうしたものかと考えるでもなく考えて、数週間経とうとしています。 行きたいところ、会いたい人、ない訳ではありませんがやはりどうしても気が引けます。 これをどう言い表せばよいか悩んでいるうちにどうでもいいような言葉を並べてしまいます。“気持ち悪い”と言うのはなかなか言い当てているかもしれません。原発事故後、岡山に来るまでの3年間、僕の目には東京の空気は黄ばんで見えていました。放射能は目に見えないと言われますがホントにそうなのか疑問と言えば疑問です。 それではあの時見えていた黄ばんだ空気はなんなのか。 たまに“放射脳”という言葉で僕を揶揄する方がいらっしゃいますが、ご本人は揶揄のおつもりでお書きになるのだろうけれど、受け手の僕は揶揄でもなんでもなく事実であるかもしれないとむしろ同意しているという事はなかなかお伝えできないことなのですが、果たして放射能とは何者なのだと、思い悩むしかない状況は、全く何も変わっていませんし変わらないかもしれません。 いずれにしても、きわめて主観的にとあえて断ってからいうのも悔しいのですが関東は我が家にとっては娘を連れて行くのには不安な場所になってしまいました。 思い出のほとんどは関東にしかないのですが。 しかし娘の思い出のほとんどは岡山にしかないのも事実です。 行ってきけなくもないのですが、行かないですむなら行かないで済ませたいと思いますが、あと数年はそうはいきません。 娘がいなければきっと東京にまだいたと思います。他に行くところがりませんので。 取りとめなくなりそうです。駄文は破棄が原則かもしれません。 遺書として、ずっと自分の遺体は絶体に人に見せないでほしい。眠ったような顔を見られるなんて御免です。そんなプライバシーの侵害はありませんと言っていますがもう一つ、最近遺骨は粉にして東京に撒いてほしいというのが加わりました。年初に書く遺書には来年からキチンと書くことにします。 やはりとりとめがなくなりました。 一応記録として留めます。 また書こうと思います。 次回に続く。 #
by yanetuki
| 2017-06-21 14:41
| 我が家のギリギリ疎開計画
2017年 04月 27日
フェイスブックのエントリーを保存の目的で引用しておきます。以下。 実は最近くたびれておりまして、それは1ヶ月近く治らない鼻声と何とも言えない虚脱感のようなものが取れなくてそれが原因のひとつかと想いますが、それよりも前からどうも笑うのにちょっと苦労していてどっちがどうなのかわかりませんがともかくぼやあっとしている感じで過ごしています。(これを書き始めたのは数日前で、実は昨日辺りからはかなり体調だけは改善しています。) 自意識の問題で、こういう事を僕はわりと平気で書いてしまうのですが、原発避難の実態を少しでも晒して僕らのような存在を風化させないというもっともらしい理由を用意しつつ、寛容な方々に甘えているのが実状です。 ...こういう時はと言いますか、最近と言いますか、頭のなかを出来るだけ整理して、なるべくシンプルにしておこうという合理的と言えば聞こえがいいですが要するに余計な体力は使わないと言いますか頭の中の引き出しをなるべく簡単に事務的に明け閉めしたいという歳を重ねたが故の横着さで、自分を誤魔化しつつ乗りきろうなんて魂胆に打って出ていると言えなくもない気がいたしているのですが、少し頭を整理しようと最近考えています。 もちろん、言い訳として聞いていただく事は前提にさえなっています。僕は自分の責任においてここで言葉を並べるだけですので、それにたいしての評価について規制する立場には一ミリも立っておりません。 僕は岡山に来てからずっとしばらくはなんとか地元の皆さんのなかに入っていこうと考えていました。自分の事を知ってもらうにはまず自分が地元の皆さんの事を知らなければならない。いきなり自己主張したところでいったい誰が聞いてくれるのだ、立場を逆にすればそれが当たり前であることは誰よりもまず先に気付く事だと確信しておりました。 今はそれが少し変化をしています。 敢えて原発避難者として移住者としての立場をはっきりとさせていこうと今は考えています。理由は大きく二つ。 ひとつはいまだ苦しむ避難移住者のための空間の確保のため。抽象的ですが物理的にも精神的にも拠り所が必要な避難移住者はまだいます。そして新たに加わってもいますので、彼らのための空間を確保しなければいけないとういう思いが強まりました。 これはいい悪いではなく現象として当事者の事は当事者でないとわからない事があるからです。そして繋がるとは他者を理解しようとすることだけではなく当事者の当事者としての権利の担保もそう呼ばれて然るべきなのではないかなと思い至ったことも起因します。念のため書き添えますが、僕は当事者と認識している事以外についての理解はむしろ劣っていると主観ですがそう認識しています。 もうひとつは風化を恐れたからです。 移住した人の中には自分を移住者としていつまでもその立場を主張ばかりしているわけにはいかないと考える人もいます。それは体験として理解できます。しかしそこに僕はとんでもない不安を感じました。原発事故が自分の中で消えていく不安です。自分が原発避難移住を伝えなかったら誰が伝えるのだろうと。というか自分の責任において事故を風化させないというのは残された生きる目的の数少ないひとつであることが全く疑う余地のないほどに確定してしまっています。 原発事故をなぜ風化できますか。僕には全然分からない。 立場をはっきりとさせる事は今の僕には神様以上の救いの手です。権利の明確化でもあります。権利に疎い僕らの社会が過渡期を迎えているので余計です。そして手段の整理です。 僕は残された時間の中で最大限に娘を守り取り返しのつかない両親や家族に対しての罪の償いにもならない程度ではあるがせめてもの穴埋めをいかにするかという事を、それが他人には伏せたところにしまいつつも存在するあからさまな感情ではあることを承知しつつ、それを原動力として具体的なものに直して頭の中に箇条書きにしています。 ひとつは避難移住者の月に一度の交流の場づくり。ふたつめは原発災害を公害問題として社会的認知を確定させるための活動、みっつめは避難移住者と政治との繋がりを身近な所で確実に保つお手伝い、よっつめは避難移住者の交流と可能性を模索するグループのお手伝い、そしていつつめはまだ妄想の域にしかない避難移住者による新しいエネルギーの普及活動。 解決する問題などなにひとつとして存在しないという逆説的な言い方は真理に近いところにありそうではありますがそれではもとも子もないので、そういう独りよがりはやめたい気持ちもあって、書き足らないが書いています。 たぶん夢とか希望です。 僕が求めているのは娘が永遠に求めていける夢とか希望。それを彼女にプレゼント出来るか。 そして妻への感謝。 両親の最期の幸福感。 それを忘れることなく、僕は人生を線ではなく点で生きることにしたばかりです。 体調が少し戻り、常人に溶けていく前に書き終えてやれやれと思います。 おはようございます。 #
by yanetuki
| 2017-04-27 11:23
| 出せる力
2017年 03月 28日
きのうの朝、うちから50メートル程度先にある最初の信号から、娘は初めて学校に一人で行きました。正確に言いますと行ったのは修了式を終えていますので学校内の学童です。
去年春に入学した時からほとんど僕が車で送っています。歩けば大人の足で15分位の距離です。集団登校でないので一緒に行くお友達が見つかるまではという名目で送っていましたが結局ほぼ一年、今月に入るまではそのまま送っていました。妻が時々送りますがその時は歩きます。 この1ヶ月くらいからなんとなく歩いて行こうと促しています。学校まで一緒に歩いて行くと僕が遅刻になるので、まず同じ方向の同じクラスのお友達を待ち伏せて行くことにしました。 一日目。なかなか来ないお友達を少し焦りながら待ちましたがやっと来たお友達に一緒に行ってもいい?と聞くとウン、と言ってくれたのでじゃあ行っておいで気をつけてねと送り出すと、娘も行ってきますと返事を返し、元気にいってくれました。 一日目、二日目くらいは良かったのですが三日目から娘が行くのを渋るようになりました。早足で歩くお友達を必死に追いかけるように行く娘を実は心配していたのですが、娘はそのお友達と行きたがらなくなりました。 相性もある様子だったので聞いてみたら図星でしたのであまり無理を言わないようにしました。とはいえ他に同じクラスのお友達もいないのでちょっと困ってしまいました。 もう一人、違うクラスの女の子がいるので今度は彼女を待つことにしました。彼女も来るのが遅いのでやはり待つことにしたのですが、するとすぐそばのマンションから同じ保育園だった一年生の男の子が出てきて娘の名前を呼んで通りすぎていきました。 あの男の子あなたの名前知ってるじゃんと娘に言うと、あっ、あたし行くと言って僕が持っていたお弁当と水筒を奪うように取り上げ追っかけて一緒に行きました。 同じクラスのお友達じゃなきゃ嫌だと言っていたのにやれやれです。 彼はあまり遅くもなく待つことがないので助かります。二日目は当たり前のように手を繋いでいそいそ歩いて行ってくれました。なんだ行けるのか。 保護者同士の会釈。 これから二人で行ってもらえるかなと思ったのもつかの間春休み。 娘は学童、その男の子はお休みです。 という訳で、春休みの間はまた一緒に行く人がいなくなりましたので、そこできのう初めて一人で行ってみようということになりました。 いつもの信号で送り出し僕は駐車場に戻って車で出ます。方向が途中までは同じなので様子が見られます。渋滞が助かります。通学路の半分は見られます。広い歩道で人も多く見通しの良い道路ばかりなのでそこが少し安心です。 しかしヒヤヒヤです。 信号待ちの僕にお父さん気をつけてねと言う娘はなかなか頼もしい。足取りもやっと最近同期生に近づいてきた。 大きな信号を娘は待ち僕は右折していきます。 なかなかスリルのあることです、僕には。 学校がもう見えていますのでそれが救いですが春休み、いつもなら子どもたちが集まってきて当番の保護者のお母さんもいたりしますが そうではないので気をもみます。 どちらかと言うと僕の方がヒヤヒヤという感じでしたが、なんとか娘は一人で登校出来ました。 僕が心配しすぎなのかそれとも他の保護者の人たちが子どもをちゃんと信頼できているということなのか。 しかしニュースは戦慄です。 テレビのニュース解説者の、私は以前からスクールバスは必要だと言っていますという言葉がやたら虚しいです。 今朝はどうしようと思っていたら代わり番子にしようよと娘が言います。どういうこと?と聞くと歩いて車、歩いて車、と娘の助け船。 そうか、じゃそうしよう。 ということで今朝は久々車で送ってやりました。 明日はそうすると一人で歩きになりますが、僕は今まだ悩んでいます。 娘は少しまた大人になりました。 次回に続く。 #
by yanetuki
| 2017-03-28 12:43
| 我が家のギリギリ疎開計画
2017年 02月 25日
娘が誕生日を迎え家でお祝いをしました。ここ数年は相模原にこの時期帰郷し座間のラ・リチェッタでお祝いをしていましたが今年は岡山の我が家で3人で妻の自家製ケーキで祝いました。
6年前の今頃は、やっと歩きだした娘が嬉しくてよく近くの多摩川の河原に遊びに連れて行っておりました。くつを脱がせ芝生のような土のような、ちょっとあいまいな場所をかまわず歩かせてやりました。人の親になることの不思議さと嬉しさに、倍以上のはっきりしない広さに広がった世界を頭の中で僕は駆けずり回っておりました。 娘は2月を1週間と待たないこの時期に生まれましたので、1歳になってから2週間であの地震に遭遇することになります。最後に多摩川の河原に行ったのは3月6日。日記に書いてあるのでわかります。日記は便利。その日記は3月10日の夜に将来の事を娘に託したあと暫く休みました。結果的にですが。ブログを読み返すと地震の日から数日はその日も含めなにも書いていません。書いても状況については書いていない。どういういう心境だったのか、当時の自分に確かめてみたいところです。
東日本大震災から6年。娘との時間はほぼ原発事故との闘いの時間です。悔しいがどこかで自分を責めている。怖いはずの原発を忘れることに暫くの間時間を費やした自分をたぶんどこかで僕は自分を責めています。もちろん、責めていてばかりではいけないことはわかっており、毎日今は前を向いて実践的に動いています。目の前に娘がいますので。 記録について考えます。このおそらく稀有な体験をしている311以降の我々には記録を残すことがかなり大事な役目ではないかなというふうにです。岡山に来るまでは震災以降頻繁にこのブログを更新し、カテゴリーを立て書いていましたが移住後はその数が減っています。Facebookがブログの役割をし始めたこともありますがTwitterも含めて自分の思いの整理が断片的にはなっています。自分の気持ちの整理がSNSというハードの都合次第に、このところなっている節があります。記録を残しておいた方がいいのではないかという考えからすると果たしてこのままでいいだろうかと気にもなり今少し記録の仕方について試行錯誤を始めたところです。 記録について考えていることに加え今少し頭にあることがあるので近況としてもう少し書きます。 去年の10月から月に一度旭川の支流で特に移住者に声かけをしてバーベキューを始めました。暫く休んでいたキャンプ道具が久々日の目をみています。これがなかなか好評でやって良かったと思っています。移住者の心情は複雑です。その心をいくらか休める場をつくることは大事で、そういう事なら出来るかなとここ暫くは思っています。 もうひとつの移住者の場として虚ね秋に岡山県議になられた大塚愛さんを囲んだ議会報告兼ねた交流会があります。移住者の思いを何らかの具体的なものにする作業に窮していました。岡山に原発避難者である議員が登場したことは極めて大きな意味があると僕は信じています。ですのでもはやこれはライフワークのつもりで取り組んでいます。移住者の思いは複雑です。 個々のそれぞれの心情については丁寧にひとつひとつ了解しなければいけない気がしています。記録する事とこれは繋がりますがどのように移住者の思考や意思を見えるかたちにするかの作業について考えていきたいです。 ひとつふたつ、その方法として取り組みたい事が具体的にありますが今日は詳細は留めますが、“あいまいな喪失”という言葉に先日出会い、希望を新たにまた見つけたところではあります。考えれば水車の発電とかも、具体的な勉強のテーマとしてありました。メモ書き用ノートが最近役にたっています。 年のせいは往々にしてあると思いますが、最近人生を時間という線ではなく点だという風に考えるように少しなっています。歳を重ねてからの人生の方が面白いという先を行く人の言うことが近頃なんとなく分かります。 また以前のようにブログを気にしたいと思います。 次回に続けます。 #
by yanetuki
| 2017-02-25 03:46
| 我が家のギリギリ疎開計画
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