屋根つきBlog!原発事故を許さないために
2019-01-22T16:56:50+09:00
yanetuki
不惑を過ぎた屋根つきの無責任極まりない書置き since 2004
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我が家のギリギリ移住計画112
http://yanetuki.exblog.jp/239073200/
2019-01-22T16:55:00+09:00
2019-01-22T16:56:50+09:00
2019-01-22T16:55:33+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
http://girigiriijyuu.blog.jp/archives/cat_1266692.html]]>
我が家のギリギリ移住計画 110 里帰り
http://yanetuki.exblog.jp/237111202/
2017-06-21T14:41:00+09:00
2018-12-11T15:45:50+09:00
2017-06-21T14:41:30+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
2017年6月21日。近況です。今一番頭悩ませていることは、「帰郷」です。8月に休みを取って両親を兵庫か岡山のコテージに連れて行ってBBQなどして過ごすのはどうかと、神奈川の相模原にいる弟から1か月弱前にメールが来ています。
76と75の両親はここでも何度かお話したかもしれませんが、2014年に岡山に来て以来6~7度、もしかしたらもう少し、岡山に孫に会いに来ています。こちらからなかなかいけないという事があり、来てくれるのは有難いのですが高齢です。何度も何度も来い来いとは言えず、さすがにもう毎回毎回来ればいいよとは簡単に言えなくなっています。
“そっちが都合つけてくれるなら、そのほうが話は早いよ”と、弟はこちらの返信に応えてきているのですが、そこからなかなか僕の方の返事が進みません。どうしたものかと考えるでもなく考えて、数週間経とうとしています。
行きたいところ、会いたい人、ない訳ではありませんがやはりどうしても気が引けます。
これをどう言い表せばよいか悩んでいるうちにどうでもいいような言葉を並べてしまいます。“気持ち悪い”と言うのはなかなか言い当てているかもしれません。原発事故後、岡山に来るまでの3年間、僕の目には東京の空気は黄ばんで見えていました。放射能は目に見えないと言われますがホントにそうなのか疑問と言えば疑問です。
それではあの時見えていた黄ばんだ空気はなんなのか。
たまに“放射脳”という言葉で僕を揶揄する方がいらっしゃいますが、ご本人は揶揄のおつもりでお書きになるのだろうけれど、受け手の僕は揶揄でもなんでもなく事実であるかもしれないとむしろ同意しているという事はなかなかお伝えできないことなのですが、果たして放射能とは何者なのだと、思い悩むしかない状況は、全く何も変わっていませんし変わらないかもしれません。
いずれにしても、きわめて主観的にとあえて断ってからいうのも悔しいのですが関東は我が家にとっては娘を連れて行くのには不安な場所になってしまいました。
思い出のほとんどは関東にしかないのですが。
しかし娘の思い出のほとんどは岡山にしかないのも事実です。
行ってきけなくもないのですが、行かないですむなら行かないで済ませたいと思いますが、あと数年はそうはいきません。
娘がいなければきっと東京にまだいたと思います。他に行くところがりませんので。
取りとめなくなりそうです。駄文は破棄が原則かもしれません。
遺書として、ずっと自分の遺体は絶体に人に見せないでほしい。眠ったような顔を見られるなんて御免です。そんなプライバシーの侵害はありませんと言っていますがもう一つ、最近遺骨は粉にして東京に撒いてほしいというのが加わりました。年初に書く遺書には来年からキチンと書くことにします。
やはりとりとめがなくなりました。
一応記録として留めます。
また書こうと思います。
次回に続く。
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facebook 2017年4月23日 6:13 のコピペ
http://yanetuki.exblog.jp/23844316/
2017-04-27T11:23:00+09:00
2017-04-27T11:23:45+09:00
2017-04-27T11:23:45+09:00
yanetuki
出せる力
こんばんは。 実は最近くたびれておりまして、それは1ヶ月近く治らない鼻声と何とも言えない虚脱感のようなものが取れなくてそれが原因のひとつかと想いますが、それよりも前からどうも笑うのにちょっと苦労していてどっちがどうなのかわかりませんがともかくぼやあっとしている感じで過ごしています。(これを書き始めたのは数日前で、実は昨日辺りからはかなり体調だけは改善しています。) 自意識の問題で、こういう事を僕はわりと平気で書いてしまうのですが、原発避難の実態を少しでも晒して僕らのような存在を風化させないというもっともらしい理由を用意しつつ、寛容な方々に甘えているのが実状です。... こういう時はと言いますか、最近と言いますか、頭のなかを出来るだけ整理して、なるべくシンプルにしておこうという合理的と言えば聞こえがいいですが要するに余計な体力は使わないと言いますか頭の中の引き出しをなるべく簡単に事務的に明け閉めしたいという歳を重ねたが故の横着さで、自分を誤魔化しつつ乗りきろうなんて魂胆に打って出ていると言えなくもない気がいたしているのですが、少し頭を整理しようと最近考えています。もちろん、言い訳として聞いていただく事は前提にさえなっています。僕は自分の責任においてここで言葉を並べるだけですので、それにたいしての評価について規制する立場には一ミリも立っておりません。 僕は岡山に来てからずっとしばらくはなんとか地元の皆さんのなかに入っていこうと考えていました。自分の事を知ってもらうにはまず自分が地元の皆さんの事を知らなければならない。いきなり自己主張したところでいったい誰が聞いてくれるのだ、立場を逆にすればそれが当たり前であることは誰よりもまず先に気付く事だと確信しておりました。 今はそれが少し変化をしています。 敢えて原発避難者として移住者としての立場をはっきりとさせていこうと今は考えています。理由は大きく二つ。ひとつはいまだ苦しむ避難移住者のための空間の確保のため。抽象的ですが物理的にも精神的にも拠り所が必要な避難移住者はまだいます。そして新たに加わってもいますので、彼らのための空間を確保しなければいけないとういう思いが強まりました。これはいい悪いではなく現象として当事者の事は当事者でないとわからない事があるからです。そして繋がるとは他者を理解しようとすることだけではなく当事者の当事者としての権利の担保もそう呼ばれて然るべきなのではないかなと思い至ったことも起因します。念のため書き添えますが、僕は当事者と認識している事以外についての理解はむしろ劣っていると主観ですがそう認識しています。もうひとつは風化を恐れたからです。 移住した人の中には自分を移住者としていつまでもその立場を主張ばかりしているわけにはいかないと考える人もいます。それは体験として理解できます。しかしそこに僕はとんでもない不安を感じました。原発事故が自分の中で消えていく不安です。自分が原発避難移住を伝えなかったら誰が伝えるのだろうと。というか自分の責任において事故を風化させないというのは残された生きる目的の数少ないひとつであることが全く疑う余地のないほどに確定してしまっています。 原発事故をなぜ風化できますか。僕には全然分からない。 立場をはっきりとさせる事は今の僕には神様以上の救いの手です。権利の明確化でもあります。権利に疎い僕らの社会が過渡期を迎えているので余計です。そして手段の整理です。 僕は残された時間の中で最大限に娘を守り取り返しのつかない両親や家族に対しての罪の償いにもならない程度ではあるがせめてもの穴埋めをいかにするかという事を、それが他人には伏せたところにしまいつつも存在するあからさまな感情ではあることを承知しつつ、それを原動力として具体的なものに直して頭の中に箇条書きにしています。ひとつは避難移住者の月に一度の交流の場づくり。ふたつめは原発災害を公害問題として社会的認知を確定させるための活動、みっつめは避難移住者と政治との繋がりを身近な所で確実に保つお手伝い、よっつめは避難移住者の交流と可能性を模索するグループのお手伝い、そしていつつめはまだ妄想の域にしかない避難移住者による新しいエネルギーの普及活動。 解決する問題などなにひとつとして存在しないという逆説的な言い方は真理に近いところにありそうではありますがそれではもとも子もないので、そういう独りよがりはやめたい気持ちもあって、書き足らないが書いています。たぶん夢とか希望です。 僕が求めているのは娘が永遠に求めていける夢とか希望。それを彼女にプレゼント出来るか。
自分が死んだあとの話なので確実にキメておきたい。そして妻への感謝。 両親の最期の幸福感。それを忘れることなく、僕は人生を線ではなく点で生きることにしたばかりです。 体調が少し戻り、常人に溶けていく前に書き終えてやれやれと思います。おはようございます。
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我が家のギリギリ移住計画109
http://yanetuki.exblog.jp/23752239/
2017-03-28T12:43:00+09:00
2018-12-13T10:37:47+09:00
2017-03-28T12:43:00+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
去年春に入学した時からほとんど僕が車で送っています。歩けば大人の足で15分位の距離です。集団登校でないので一緒に行くお友達が見つかるまではという名目で送っていましたが結局ほぼ一年、今月に入るまではそのまま送っていました。妻が時々送りますがその時は歩きます。
この1ヶ月くらいからなんとなく歩いて行こうと促しています。学校まで一緒に歩いて行くと僕が遅刻になるので、まず同じ方向の同じクラスのお友達を待ち伏せて行くことにしました。
一日目。なかなか来ないお友達を少し焦りながら待ちましたがやっと来たお友達に一緒に行ってもいい?と聞くとウン、と言ってくれたのでじゃあ行っておいで気をつけてねと送り出すと、娘も行ってきますと返事を返し、元気にいってくれました。
一日目、二日目くらいは良かったのですが三日目から娘が行くのを渋るようになりました。早足で歩くお友達を必死に追いかけるように行く娘を実は心配していたのですが、娘はそのお友達と行きたがらなくなりました。
相性もある様子だったので聞いてみたら図星でしたのであまり無理を言わないようにしました。とはいえ他に同じクラスのお友達もいないのでちょっと困ってしまいました。
もう一人、違うクラスの女の子がいるので今度は彼女を待つことにしました。彼女も来るのが遅いのでやはり待つことにしたのですが、するとすぐそばのマンションから同じ保育園だった一年生の男の子が出てきて娘の名前を呼んで通りすぎていきました。
あの男の子あなたの名前知ってるじゃんと娘に言うと、あっ、あたし行くと言って僕が持っていたお弁当と水筒を奪うように取り上げ追っかけて一緒に行きました。
同じクラスのお友達じゃなきゃ嫌だと言っていたのにやれやれです。
彼はあまり遅くもなく待つことがないので助かります。二日目は当たり前のように手を繋いでいそいそ歩いて行ってくれました。なんだ行けるのか。
保護者同士の会釈。
これから二人で行ってもらえるかなと思ったのもつかの間春休み。
娘は学童、その男の子はお休みです。
という訳で、春休みの間はまた一緒に行く人がいなくなりましたので、そこできのう初めて一人で行ってみようということになりました。
いつもの信号で送り出し僕は駐車場に戻って車で出ます。方向が途中までは同じなので様子が見られます。渋滞が助かります。通学路の半分は見られます。広い歩道で人も多く見通しの良い道路ばかりなのでそこが少し安心です。
しかしヒヤヒヤです。
信号待ちの僕にお父さん気をつけてねと言う娘はなかなか頼もしい。足取りもやっと最近同期生に近づいてきた。
大きな信号を娘は待ち僕は右折していきます。
なかなかスリルのあることです、僕には。
学校がもう見えていますのでそれが救いですが春休み、いつもなら子どもたちが集まってきて当番の保護者のお母さんもいたりしますが
そうではないので気をもみます。
どちらかと言うと僕の方がヒヤヒヤという感じでしたが、なんとか娘は一人で登校出来ました。
僕が心配しすぎなのかそれとも他の保護者の人たちが子どもをちゃんと信頼できているということなのか。
しかしニュースは戦慄です。
テレビのニュース解説者の、私は以前からスクールバスは必要だと言っていますという言葉がやたら虚しいです。
今朝はどうしようと思っていたら代わり番子にしようよと娘が言います。どういうこと?と聞くと歩いて車、歩いて車、と娘の助け船。
そうか、じゃそうしよう。
ということで今朝は久々車で送ってやりました。
明日はそうすると一人で歩きになりますが、僕は今まだ悩んでいます。
娘は少しまた大人になりました。
次回に続く。
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我が家のギリギリ移住計画108
http://yanetuki.exblog.jp/23675848/
2017-02-25T03:46:00+09:00
2018-12-13T10:36:53+09:00
2017-02-25T06:15:33+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
6年前の今頃は、やっと歩きだした娘が嬉しくてよく近くの多摩川の河原に遊びに連れて行っておりました。くつを脱がせ芝生のような土のような、ちょっとあいまいな場所をかまわず歩かせてやりました。人の親になることの不思議さと嬉しさに、倍以上のはっきりしない広さに広がった世界を頭の中で僕は駆けずり回っておりました。
娘は2月を1週間と待たないこの時期に生まれましたので、1歳になってから2週間であの地震に遭遇することになります。最後に多摩川の河原に行ったのは3月6日。日記に書いてあるのでわかります。日記は便利。その日記は3月10日の夜に将来の事を娘に託したあと暫く休みました。結果的にですが。ブログを読み返すと地震の日から数日はその日も含めなにも書いていません。書いても状況については書いていない。どういういう心境だったのか、当時の自分に確かめてみたいところです。
東日本大震災から6年。娘との時間はほぼ原発事故との闘いの時間です。悔しいがどこかで自分を責めている。怖いはずの原発を忘れることに暫くの間時間を費やした自分をたぶんどこかで僕は自分を責めています。もちろん、責めていてばかりではいけないことはわかっており、毎日今は前を向いて実践的に動いています。目の前に娘がいますので。
記録について考えます。このおそらく稀有な体験をしている311以降の我々には記録を残すことがかなり大事な役目ではないかなというふうにです。岡山に来るまでは震災以降頻繁にこのブログを更新し、カテゴリーを立て書いていましたが移住後はその数が減っています。Facebookがブログの役割をし始めたこともありますがTwitterも含めて自分の思いの整理が断片的にはなっています。自分の気持ちの整理がSNSというハードの都合次第に、このところなっている節があります。記録を残しておいた方がいいのではないかという考えからすると果たしてこのままでいいだろうかと気にもなり今少し記録の仕方について試行錯誤を始めたところです。
記録について考えていることに加え今少し頭にあることがあるので近況としてもう少し書きます。
去年の10月から月に一度旭川の支流で特に移住者に声かけをしてバーベキューを始めました。暫く休んでいたキャンプ道具が久々日の目をみています。これがなかなか好評でやって良かったと思っています。移住者の心情は複雑です。その心をいくらか休める場をつくることは大事で、そういう事なら出来るかなとここ暫くは思っています。
もうひとつの移住者の場として虚ね秋に岡山県議になられた大塚愛さんを囲んだ議会報告兼ねた交流会があります。移住者の思いを何らかの具体的なものにする作業に窮していました。岡山に原発避難者である議員が登場したことは極めて大きな意味があると僕は信じています。ですのでもはやこれはライフワークのつもりで取り組んでいます。移住者の思いは複雑です。
個々のそれぞれの心情については丁寧にひとつひとつ了解しなければいけない気がしています。記録する事とこれは繋がりますがどのように移住者の思考や意思を見えるかたちにするかの作業について考えていきたいです。
ひとつふたつ、その方法として取り組みたい事が具体的にありますが今日は詳細は留めますが、“あいまいな喪失”という言葉に先日出会い、希望を新たにまた見つけたところではあります。考えれば水車の発電とかも、具体的な勉強のテーマとしてありました。メモ書き用ノートが最近役にたっています。
年のせいは往々にしてあると思いますが、最近人生を時間という線ではなく点だという風に考えるように少しなっています。歳を重ねてからの人生の方が面白いという先を行く人の言うことが近頃なんとなく分かります。
また以前のようにブログを気にしたいと思います。
次回に続けます。
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我が家のギリギリ移住計画107
http://yanetuki.exblog.jp/23514774/
2016-12-31T22:42:00+09:00
2018-12-13T10:35:55+09:00
2016-12-31T22:42:25+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
夕方4時を過ぎそろそろ午後5時になります。娘が小学校に入り、僕は当初考えていなかった学校用務員の仕事を引き続き出来る事になり3年目を迎えられた年でした。岡山に来て丸2年と8か月を経過、年齢も区切りの50歳を迎えた年でもあります。自分なりには一年一年の区切りは相変わらずつけていたいと思っていますが、それは自分自身でわりとしっかりとできていればそれでよく、あえて仰々しくしてしまうとかえってその形に拘り満足してしまいかねないと少し警戒心も出てきましたので、今年は少しその区切りの仕方を考えていたりしています。
1月です。
1月の気分は焦り。市の臨時職員として小学校で用務員をしていましたが、7月までで契約が切れる。年が明けていよいよお尻に火がついた。次の仕事探しというモードに入ったのだったと思います。1年半ぶりに職探しモードの突入、しかけたのが確か1月。
初旬に娘連れて相模原に帰郷。
2月です。
どうやら7月以降も用務員が出来そうだよと教えられ、少なくとも今の小学校は3月までかもという事で、惜別の思いと仕事についてのちょっとの安堵がまじりあったそんな感じ。いよいよ娘小学校で学童の説明会やらで娘の春も近づいてきた。毎日通う保育園への道が名残惜しい。
3月です。
野党共闘で頑張ってきた仲間とは疎遠になっていた。僕は乱暴で先走るのが自分でも反省材料になるのだけど。7月の参議院選挙まであとたった4ヶ月。
1年9か月の小学校勤務が終わった。体育館でのお別れの会で子どもたちに挨拶をさせて頂いた。送別会では1年9か月前から決めておいたお別れの挨拶の出だし通りに話を始めた。なぜ東京から来たのか、それまでの3年間どうように暮らしていたか、どうして用務員になったか、岡山に来てこの1年9か月どのような思いでいたか、どれだけ先生たちに感謝していたか、思いのそのすべてをお話させていただいた。泣いてた先生もいた。
4月です。
孫の入学式を楽しみにお袋が来岡。5回目だったか6回目だったか。
僕の職場は小学校から中学校になった。夏で終わるはずの臨時職員契約が、その先も続けらる事になった。新しい生活が始まった。50になった。
5月です。
うん、なにしてたかな。
6月です。
7月の参院選めざし、野党共闘の活動が活発の中、僕もなんとか必死に応援しました。娘がECCに行きだした。確かとにかく選挙だったと思う。血圧計買った。
7月です。
携帯壊れて修理に出して写真以外のデータが全部とんだ。参院選。
畑始めた。最近行ってないな、汗。
丸2年の臨時職員の契約が切れて試験を受けて改めて再雇用。
娘がなんとかかんとかプールの授業で顔付けが出来た。過保護に思うが仕方ない。放射能まみれの水で遊ばせるわけにはいかなかったから。
8月です。
親父と弟が来岡。花火見に行った。
移住者交流会、集いあいのワークにこの月から参加した。
移住直後からの月一の庭瀬の集いとこの交流会の二つが毎月の日課になった。
2011年から計3回疎開に行かせていた長崎の東彼杵に行ってきた。
長崎の仲間は元気だった。やっぱり闘っていた。みな闘っている。酒飲んだ。
終りに今度はお袋が来岡。
9月です。
子ども未来の小冊子作成の協力させてもらった。
学校の廊下の壁生徒と塗って初めてこの学校で交流らしい交流があった。
10月です。
原発移住者の多い岡山に“原発避難者”である県議会議員が誕生するチャンスがやってきた。
一生懸命応援させてもらった。見事な結果。
キャンプの道具をそのまま眠らせているのももったいないので、月1で河原で移住者呼んでバーベキューする事にした。この月が一回目。意外と好評。
11月です。
“ニュースでやらない沖縄”はこの一か月で準備した。ひたすら準備。
いい会が出来た。
お袋の誕生日に娘が自転車に乗れるようになった。
12月です。
次の準備。大体できた。来年の布石。今後の人生の布石。今の所自分だけの目論見。
来年の抱負です。
ライフワークが見つかったと思ってる。毎日一日一日確実に生きるということを身に着ける一年になれば。時間との付き合い方を考える1年だったので、それを実行に移す年。
具体的に生きることにします。
家族の平和。
311から時が止まったようだった日々が少し動いている。
闘う意志はあの時から寸分変わらない。
娘を守るためだけの人生に、全く変更なし。
年明けに間に合った。
皆様、良い年を。
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とうとうこの日が来ました。
http://yanetuki.exblog.jp/23503881/
2016-12-27T09:44:00+09:00
2016-12-27T09:44:30+09:00
2016-12-27T09:44:30+09:00
yanetuki
笑う屋根には福来る
一生の不覚にしてはいけない。 大丈夫なにいってんのと出だしは最悪。 大丈夫、独りになんかならないよ。
ちょっと、お話聞いてと落ち着かす。
いいかい、よく聞いて。 順番なんだなあ。繋げるって分かる?すっごく歳を取ったおじいさんとかおばあさんはね、いろんな楽しいこととか嬉しいこととかいろんな良かった事を経験したの、経験て分かる?うん、いろんな事したの。いっぱいいろんな事するとね、今度は自分はもういいから自分の子どもとか孫におんなじようにして欲しいと思うんだな、これが。
だから、交代して、今度は若い人にやって欲しいわけ。だから自分は天国行っちゃって交代するんだな。
でも独りになる訳じゃないよ。もしかして国語の教科書で読んだ「ずっとずっと大好きだよ」で犬が死んじゃったから、だからそう思ったの?そうかそうか、でも大丈夫じゃん、ずっとずっと大好きだよって言ってたでしょ。ずっと大好きでいられるんだよ、大丈夫、ずっとずっとだから。ずっとずっとだから。だからね、いなくなってもここに、(娘の胸をトントンと叩いた)みんな来るんだよ、ここにいるのずっと。ね、だから大丈夫でしょ。姿は見えないけど独りじゃないじゃん。だから大丈夫大丈夫。 頷く娘。 独りになんかならないから。一緒よ、一緒。6歳でしょ。独りになるわけないじゃん。お父さんもお母さんもいなくならないから心配しなくていいよ。大丈夫大丈夫。いなくならない。お父さんはね、あなたが直ぐなんでも言ってくれるから安心なんだ。大丈夫。 心配な事、悲しい事、イヤな事、恐い事、辛い事、なんでもあったら言っていいんだよ、全部お話してあげる。全部大丈夫だから。なーんにも心配しなくていいって知らないでしょ、心配しなくていいの、全部大丈夫だから。なんでもお話してあげる。 大丈夫なの? 大丈夫だよ。ぜーんぶ大丈夫なようになってるの。
だからなんでもお話すればいい。いいかい。 涙を拭ってまた頷いた。こっちおいで。 抱いてやる。宇宙が手にはいる。 本読もう、本。 僕はいつものように本を逆さに持って逆に読む。娘はなんとかいつものように逆だよと、僕に突っ込みを入れてくれた。お父さん、人間は歳を取ると死んじゃうの? 人間は繋げる事に喜びを感じられる。そうなれる。だから全然心配はいらないんだよ。だからね、
だから大丈夫。お休みなさい。よい夢を。]]>
我が家のギリギリ移住計画106
http://yanetuki.exblog.jp/21398151/
2015-06-30T16:59:00+09:00
2018-12-12T14:22:06+09:00
2015-06-30T16:59:24+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
今日で用務員の仕事が丸一年終了しました。本来の雇用契約では今日で退職という事になりますが、一か月のパート期間を経てあと一年この学校でお世話になる事が出来る事になりました。
あっという間でしたが貴重な経験になりました。今後は次の生活を見据えつつ用務のお仕事務めさせていただきたいと思っています。7月はパートの為勤務が減ります。いい機会ですので今まで以上にイベントや移住者交流の場に参加し様々な事にチャレンジしたいと考えています。
ありがとうございました。
学校の畑で四角いスイカに挑戦中。毎日観察したいスイカ畑。休んでもいられません、汗。
次回に続く。
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我が家のギリギリ移住計画105
http://yanetuki.exblog.jp/21376792/
2015-06-24T13:38:00+09:00
2018-12-12T14:17:11+09:00
2015-06-24T13:38:01+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
花お好きなんですかと工事で来ている作業のおじさんに聞かれたので、この仕事やる前は花なんて全くやったことなかったですと言ったらえーと驚かれてしまいました、汗。ペチュニアは梅雨の時期の湿り気に弱いそうなのでプランターにこの前貰った藁を敷き、雨があまり当たらない場所に移動させてみました。水やりも花にかけず脇からそっと流し込むようにやってみています。ゼラニウムやロベリアあたりも弱いそうなので雨をしのげるところに移しました。
ミニヒマワリは順調で黄色く花が開きだしました。五つのプランターに分けて植えたポーチュラカは強いので、花芽から数センチのところでポキポキ何本も折って校門脇下段のへりに刺し枝してやったのですが、するとすぐに根付いて花を咲かせました。
たくさんいただいたメランポジウムの苗は校門脇、体育館脇、職員室脇のそれぞれの花壇に地植えすくすく育ち、こちらも黄色い花芽をのぞかせています。
春は種まきと苗植えに運動会。そして夏に向う今は毛虫の観察と駆除。夏は子どもたちのいない学校でペンキ塗りでもしようかと考えています。学校行事盛りだくさんの秋に向えば収穫と今度は秋植え苗がやってきてやがて冬支度。年を越せば一気に卒業式と入学式の準備です。季節を感じる事の出来る仕事。いいなと感じられるようになりました。
原発反対。脱被曝。
次回に続く。
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我が家のギリギリ移住計画104
http://yanetuki.exblog.jp/21369555/
2015-06-22T12:20:00+09:00
2018-12-12T14:07:18+09:00
2015-06-22T12:20:45+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
この1~2か月、校庭の見回りの時には桜の木をじっくり目を凝らして見ています。夏のイラガの大量発生を防ぐためです。触れると湿疹ができ強烈なかゆみを伴うこのイラガは、この時期に頑張って駆除すればその大量発生をある程度防ぐことが出来ます。見るポイントは写真のような葉の茶色のい変色。これを見つけたら全部取りまわりの葉を見ます。そうすると、
こんな感じでまだちっちゃく一か所にまとまっているイラガが見つかります。これを葉ごと取ります。
根気よく毎日毎日毛虫の駆除をすると年を追うごとに発生する数が減っていくんだそうです。ただ1~2年サボるとまた出てくるそうで、植物とのお付き合いは時間をかけじっくりやっていくものなんだなと勉強になっています。
桜のイラガとつつじのチャドクガ。この二つが目下の憎っくき相手。今日は高枝切ばさみを持ち出しイラガの付いた葉っぱをばっさりやってきました。
次回に続く。
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さよならテレビ。 58 東京地方裁判所駐車場
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2015-06-17T11:41:00+09:00
2015-06-17T11:41:37+09:00
2015-06-17T11:41:37+09:00
yanetuki
さよならテレビ。
何か大きな裁判の時あるいは組閣の時、今は知りませんが昔は各テレビ局が中継所をつくってそこから中継をしてましたが、そのセッティングに何度か行きました。僕は美術だったんで主にテント張りが仕事だった。2×6のテーブル(ニロクのテーブルと読みます。足が折りたためる細長い木目のテーブルの事をそう呼んでいます)とパイプイスは技術部に先に貸して技術のセッティングの時に一緒に持って行ってもらってたかもしれないし、そうでなくってやっぱり美術先乗りで一式全部持って行ってたかもしれないし細かい事は忘れちゃいましたがとにかく、一局ではなく確かNHK含めて各局一斉におんなじ場所に集まって中継のためのテント設営をやっていました。
東京地裁も行ったんですが行くと各局テントを張る場所が割り当てられているわけです、お花見の場所取りみたいに(笑)。どういうわけか僕らCX組は大体いつも一番遅かった、他局はすっかり出来てんのにみたいな感じで(笑)。ぽっかり空いたスペースに遅まきながらテント張り、汗。
誰が総理大臣の時だったかそれこそ忘れちゃいましたが正月の年頭インタビューみたいなのやりに首相官邸にも言行ったことがありました。フカフカの真紅の絨毯の上を平台担いで往復したっけ(笑)。平台っていうのはセットの土台の事でとっても重いもんです。ディズニーチャンネルのロケで3×6を30枚(サブロク。サイズです。3尺×6尺)担いで階段上った時以来腰を少々悪くしています、汗。その時も各局総出。テントは張りませんでしたがやはり場所を割り振り順番でセットを建込み収録したと思います。
裁判の時は東京地裁の駐車場だったのは覚えているんですが組閣の時は何処だったかなぁとさっき地図を見てみたんですが思い出せない。国会の敷地内ではないし首相官邸だったのかなぁ。
これ、フジテレビの景品でどっかからくすねたタオル。もう相当使ってますがなかなか肌触りがよくものもちもいいです(笑)。
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我が家のギリギリ移住計画103
http://yanetuki.exblog.jp/21345474/
2015-06-15T12:25:00+09:00
2018-12-12T14:00:41+09:00
2015-06-15T12:25:19+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
先日お知り合いに頂いた藁を学校のスイカマルチの上に敷いてみました。
ツルの位置を固定させるためには方法がいくつかあるようなのですが
藁だと孫ツルが藁に絡まって勝手に固定してくれるんだろうなと思いまして敷いてみました。
最初から藁を敷けば雨や保温や害虫対策になったのか、
昔の人は良く考えたもんだと納得しきり。
マルチの方がより万全ではありますけどね、小っちゃい孫ツルが絡むところがありませんので
別の方法で押さえなきゃいけませんのでそれじゃあなんでもやってみよう
という事でこんな具合になりました。
いろいろ勉強になります。
畑がだんだん面白くなる今日この頃です。
原発反対。脱被曝。
そしてありがとう。
次回に続く。
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我が家のギリギリ移住計画102
http://yanetuki.exblog.jp/21335279/
2015-06-12T13:34:00+09:00
2018-12-12T13:54:07+09:00
2015-06-12T13:34:57+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
全く畑仕事なんかしたことのなかった僕が用務員を初めてそろそろ一年になります。
前年度は前任者の引き継ぎでサツマイモとかミニトマトとか世話をしていましたが
今年度は春の種植えのスタートからいろんなことをなんとかかんとかやっております。
学校の畑でスイカをつくることになりまして最初はどうなる事かと思いましたが
小さな実がなるまでに一応育っています。
ネットで育て方を調べると二言目には“化成肥料”という言葉が出てきて
果たしてどこまで信用していいもんだろうかと思いまして、
このスイカもそうなんですが他の野菜や花には今はもっぱら
長崎の疎開の仲間のお母さんに頂いたEM菌を撒いています。
パンジーとビオラとチューリップが終わった今は
去年の種でペチュニア・マリーゴールド・ヒマワリ・ヘチマ
それからアサガオ。
新しく購入した苗はサルビア・ガザニア・ロベリア・マツバボタン・ポーチュラカ。
頂いた種でコキア・ミニマリーゴールド・ベビーマラカス。
とかそんな様なものを育てています。
スイカは育てるための手間がかかるということで今毎朝スイカ畑を覗いています。
苗を植えマルチを敷いてツルが伸びて花が咲き実がなるのですが
ツルは3~4本残しあとは間引き、丸い実は一個目は摘んでしまい2個目を育てます。
昨日一個、今日一個、成長を促すための受粉をしました。
二番目にできた実の雌花が咲いたらそれと同じ日に咲いた雄花の花粉を
朝の10時くらいまでの間に押し付けるようにつけやります。
受粉後4~50日目くらいが収穫の時期だそうで、
なかなか忙しい子ども達、夏休みにも入りますしさてどうしましょうか、
担当の先生とご相談、そんな具合です。
収穫するスイカの実の所に緑色の紐で印しをしました。
受粉メモも職員室のデスク備え付けのパソコンでつくっておきました。
いい経験させてもらっています。
原発反対。脱被曝。
次回に続く。]]>
我が家のギリギリ移住計画101
http://yanetuki.exblog.jp/21315892/
2015-06-07T05:41:00+09:00
2018-12-12T13:21:41+09:00
2015-06-07T05:41:14+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
お袋の首元はなんだかいつの間にしわしわになりつやがなくしみだらけでこぶみたいに膨らんでもいました。
コンビニのおにぎりなんかもう食べ物じゃないとあれだけ言ったのに
途中で買ってきた昆布の入った簡単に取れて簡単に海苔を撒けるとっても便利なおにぎりを
娘の前で平気でお膳にのせて、自分用だと言いながら娘にも分けて食わせていました。
なにをしてんだろう。
聞き訳がないと思ったが聞き分けとは所詮主観的なもので押し付けられないものだ
という事をまた気づかされたが、それにしてもお袋は変わらない。徹底している。
弟が心配した認知症が実は始まっているんじゃないだろうかと気になるくらいです。それも、
自ら進んでボケようとしているようにさえ僕には感じた。
痛々しい。
何かについて明らかにお袋は諦めている。
昭和16年だから今年いくつだろう。計算もいやになってきた。
あと何回来られるだろう。そんなに来い来いとは言えなくなる。
かといってこちらから行くのもなにかと厄介だ。
お袋はあと何年生きるだろう。5年かな、10年かな、お袋のお袋は90過ぎまで元気だったから
15年の可能性もないわけじゃない。僕に似て神経すり切らす方だから
そんなには持たんだろうか。
世田谷から神奈川の実家まで早く行けるように
わざわざ第三京浜の玉川IC脇に住んだのにそのもくろみはたった数年で水の泡。
高速料金どこまで行っても1,000円にまたなってくれないかな。
旅費を生活費にちゃんと入れて今度の仕事は探そう。
田舎に住んで自給自足になったら行きづらいかな来づらいかな、むずかしいな。
こっちに皆で来いと言えばいいなんて簡単に言うなよ。
弟の人生は弟が考える。勿論言ってはみるさ。
あと何年したら娘は自分の食事を管理して一人で東京へ行けるようになるだろう。
それまでお袋持つかな。
RSKバラ園に行ってもバラなど全く目に入らずそんなことばかり考える。
親子とはなんと面倒くさいもんだろう。
生きるとは何て面倒くさいもんだろう。
面倒くささがいいのだけれど、痛痒い心地よさに塩を塗ったくった奴がいる。
原発反対。
次回に続く。]]>
我が家のギリギリ移住計画100
http://yanetuki.exblog.jp/21305159/
2015-06-03T20:45:00+09:00
2018-04-05T13:13:04+09:00
2015-06-03T20:45:50+09:00
yanetuki
我が家のギリギリ疎開計画
久しぶりに書いています。近況について書きます。
岡山へ移住後、一年間住んだお試し住宅を出て現在は岡山市北区のJR岡山駅からほど近い古い街並みの残る住宅地に一軒長屋の一世帯分をお借りしてこの3月から住んでおります。古民家風の建物は痛みが激しく、そのかわりというわけではありませんが家賃は破格で、それはこの学区でよくこの金額の物件が探せたねと感心されるほどで、お陰様で家計的には大変助かっておりまして非常にありがたく思っています。不動産屋にはお好きにお直しくださいと言われておりまして、それではと、今後は多くの方が気軽に来ていただけて、いろんな話ができ、いろんな交流が生まれるスペースを目指しながらこの家をつくっていこうと思っております。
仕事ですが、妻はお陰様で高齢者施設で社員としてバリバリ頑張っています。僕は市の臨時職員の学校の用務員として働いておりましてそろそろ一年になろうとしています。再度契約をしていただき、あと一年間は今の仕事を続けられることになるかと思います。
月日の経つのは早いものだなぁと思います。
娘ですが、引っ越しをしてからお陰様で公立の保育園に通っております。自主性を重んじる保育園で果たして娘はやれるだろうかと当初心配していましたが、何とか頑張ってくれています。お友達の名前も娘の口からたくさん出てくるようになりました。男の子の名前が多いのは少し気になりますが、汗。通園も近く便利で、毎日主に僕が送り迎えをしております。保育園の準備や毎日の食事など、まだまだですが少し慣れてまいりました。妻は仕事を頑張り僕は家事を頑張るという我が家のスタイルが少しづつ出来てきたように思います。
まだまだ多くの不安が残っておりますがなんとかやっております。不安な将来をしっかり見つめて善後策をひとつひとつクリアしていく事を我が家の生活の基本にしていく必要があると思っています。
そういう意味では娘の天真爛漫さにはおおいに助けられています。挨拶と英語の発音はうちの娘は他の子には負けません。自画自賛ですが。
あと一年間、学校で働かせていただくことになると思いますが、これはまたとないチャンスだと感じています。出来ることがあると思っています。それも含め今後一年間の「めあて」を考えています。
1.次の仕事について考える事
2.避難や移住などについて、先生方との情報共有する事
3.図書館に放射能あるいは原発に関連する本を置いてもらう事
4.移住者として地元に還元できる活動をはじめる事。
僕の今後の岡山での生活は、原発や放射能、また避難や移住について深くかかわるものにしたいと考えています。311以降大きく変化した価値観を埋めるものは数少なく、これらの事について微力を使わせていただく事以外になかなか今後の指針が見当たらないでおります。たったひとつ、はっきりとした目的が持てるという事は嬉しい事ではありますが残念なのは自ら進んでそうなったわけでもなくまた多くの被害者が今この瞬間にも存在しているという事に尽きます。これからの一年間で何をどのくらいできるかわかりませんが方向は定まっていますので悩むことなく進むことが出来ます。具体的な事柄についてこれからしばらくはこのブログでお伝えしていきたい、またできたらいいなと思っています。
以上、次回に続く。]]>
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